これは映画"墨攻"のロケに行った時のことである。
最初に河北のインターを通過する際、夕方なのに−5℃という表示があり、ちょっといやな予感はしていたのだが、
そこには予想を遙かに上回る現実が私を待ちかまえていた。
まず撮影所に行き、車から降りてその寒さに仰天する。なにしろ寒すぎて顔が痛いのである。
それでもスタジオに入れば若干はマシなのだが、とてもじゃないけどコートを脱げる室温ではない。
さらに食事する場所がわからず、真っ暗な撮影所の敷地をうろうろしていて身体は心底冷え切ってしまった。
後に聞いた話では、-30℃の時もあったらしい。
だが、これは役者やスタッフ全員が毎日この環境で仕事をしているワケであり、ただ私の根性が足りなかっただけと思う。
深夜になってホテルに入る。
そのホテルは易泉で最も高級な宿泊施設で、すでにスタッフや役者で満室なのだが、私のために一部屋用意してくれたのだ。
私の部屋は廊下の突き当たりに位置し、その廊下にはスタッフの私物と思われる果物やビール等が置かれている。
なぜ廊下にそれらの食品が置かれているのかはすぐに判明した。
つまり、廊下が異様に寒いのである。
息も白く、ほとんど外と変わらないほど寒かったのである。
なるほど、部屋の中は暖いので食べ物が悪くなってしまうからなんだな、と妙に納得しながら自分の部屋に入った。
しかし、暖かいはずの部屋は廊下とまるで温度が変わらない。おそらく暖房がOFFになっているのであろう、
と思い、すぐさま暖房のスイッチを探したが、ない。
よく見ると、スチーム式の暖房があるにはあるが、さわってもぜんぜん暖かくない。
それどころか、その暖房機の裏側の壁が壊れており、そこからひゅうひゅうと外気が入ってくるじゃないか。
とはいえ、私のためにわざわざ部屋を取っていただいて、部屋を代えてくれ、などとは言いにくいし、
ホテルは中国語しか通じないから、物理的にも言えない。
まあ、どうせ2泊だから、と我慢することにし、とりあえずバスタブはないものの、
熱いシャワーにしばらくあたれば部屋も同時に暖まるであろうと思い、服を脱いでバスルームに向かう。
バスルームといっても、そこは大変簡素な作りで、洗面台、シャワー、便器と必要なアイテムが並んでいるにすぎなかった。
照明はほとんど切れかけている蛍光灯一つで、いっそう寒さを演出している。
そして、見るからに頼りないシャワーのコックをひねると、案の定冷たい水がちょろちょろ出た。
水量はほぼ予想通りで特に驚くこともなかったが、その後いくら待っても一向に暖かくなる気配はない。
かえって水温は下がっていくようで、ついにはほとんど凍結寸前と思えるほどになった。
その間、もちろん私は素っ裸である。当然のように、私の体温は時間と共にどんどんに奪われていく。
いっそ、このままサッと冷水を浴びて終わりにすることも考えたが、それはもはや生命に関わる事態になりかねないため、
さすがに思いとどまった。そして、あまりの寒さに風呂をあきらめかけた時、
何となくすぐ横にある洗面台の蛇口をひねってみた。すると、なんと、お湯が出るではないか!
九死に一生とはこのことで、そのお湯をコップにすくい、すぐさま冷え切った身体にぶっかける。考える余裕などなかった。
「うわっちっちっちー!」
あたりまえだ…。しかし、それは私にとって身体を温める唯一の手段であったのだ。
その後、水も出しながらなんとか温度調整を試み、コップ50杯のお湯を一気にかぶったところで少し暖まり、
身体を洗う余裕すら出てきた。だが、お湯をかけるインターバルは10秒が限界だった。
10秒を過ぎると身体は急速に冷え、大変危険である。
そこで、カウントしながらちょっとずつ洗い、すかさずコップのお湯を身体にかけるという異様な行為を幾度も繰り返した。
それにしても、人間とは意外に順応力があるもので、こんな生まれて初めての体験でも、
だんだんコツをつかんで上手くなってきたのである。そして20分後、なんとか頭も無事洗い終え、入浴終了。
すかさずタオルで身体を拭き、持参したドライヤーを全身にあてる…と、
ここで、ドライヤーが大変暖かいことに気がつく。つまりコレは温風ヒーターではないか!
もちろん、こんなもので部屋が暖まるはずはないし、何より危険と思ったが、
背に腹は代えられないので、とりあえずつけっぱなしにしておく。
そして、少々の酒を飲み、たくさん着込んでベットに潜り込む。
だが、ベットも信じられないくらい冷たく、とても寝られる状態ではない。
そこで、ドライヤーでベッドを5分間暖め、ようやく寝ることに成功したのである。
翌朝、目が覚めると、あいかわらず部屋は寒く、息が白い。
まずはドライヤーのスイッチを入れ、身体中にまんべんなく風を当てると、ようやく少し暖まってきた。
すかさずものすごい勢いで顔を洗い、服を着替えて部屋を飛び出る。
そしてプロデューサーと食事をする約束をしていたので、プロデューサーの部屋に行き、とりあえず中に入れていただく。
あれ?…暖かい…暖かいじゃないか。
念のため、プロデューサーにうかがう。
「ヒーター、効いてるんですね?」
コイツは何を質問しているのだ、という顔でプロデューサーは答えた。
「こないだまで暑すぎたんで、暖房を弱くしてもらったんですよ、寒いですか?」
「あ、いや、この部屋は暖かいな、と思いまして…あの、シャワーは出ますか?」
「もちろん出ますよ?川井さんの部屋は出ないんですか?」
そりゃあそうだ、アンディ・ラウがコップなんかで頭を洗うワケがない。
要するに、私の部屋だけハズレ、ということだ。そこで、昨夜のことを簡単に説明すると、
部屋を代えるよう交渉しましょうか?と言ってくれたが、たかが2泊くらいのことで大騒ぎしたくないし、
何よりここに何ヶ月もいる人たちにそんなことはとても言えない。
「いや、全然大丈夫です」
だが、言った後で少し後悔する。
その後、ジェイコブ監督と打ち合わせをしたり、ロケ現場を見た後、夕方になってからプロデューサーと買い物に出かけた。
近所には超地味ながらもデパートがあるので、ここで必要なものをそろえる。
まずは暖房器具コーナーに行くと、実にいろいろな種類のストーブがあり、どれもだいたい900円位であった。
その中で、首振りタイプのものが良さそうだったので、それをカートに入れる。
ついでに電気毛布も、と思ったら、プロデューサーから、それだけはやめてくれ、とストップがかかる。
要するにあまり安いモノは危険だから、という理由であったが、それを思い知るのはもう少し後のことだった。
他に、電源タップ、トイレットペーパー、水筒、おみやげ等を買ったが、
印象的だったのは店員の人がいちいち親切にしてくれることだった。変わった髪の色をした日本人が珍しかったのかもしれない。
部屋に戻ると、やはり相変わらずの極寒であったが、すかさず買ったストーブをセットし、スイッチオン!
おお…赤々とした暖かい光を放ちながら首を振るじゃないか…。
少し動きはぎくしゃくしてるしカクカクと音はするけれど、これで夜も安心だ。
そして、カメラの阪本さんとも合流して食事に行ったり、マッサージ(200円)に行ったりして、
夜、プロデューサーの部屋にストーブを持参して飲みに行く。
さすがにプロデューサーも、これは暖かくていいですね、と少し羨ましそうだったので、
明日帰るので差し上げます、とお伝えした。
そして自分の部屋に戻ろうとすると、プロデューサーがなんと私のストーブを持ってきてくれようとした。
そんなことをプロデューサーにやらせるわけにいかないので、自分で持ちますから、と言う私に、
いや部屋までお運びしますよ、と言うプロデューサー。
いやいや申し訳ないです、大丈夫ですから、と軽い取り合いとなった瞬間、ストーブは二人の手から離れ、床に落ちた。
"ぺきっ"
何かが割れる絶望的な音がした。
見ると、自慢の首振りの部分からポッキリ折れてしまっている。
それにしても、わずか20cmほどの高さから落として簡単に壊れてしまうそのあまりに華奢な筐体は、
本体の異様な軽さからもある程度想像はしていたが、ここまで弱いとは思わなかった。
深夜のホテルの廊下で床に横たわるストーブを前に、プロデューサーと目を見合わせて爆笑するものの、
私はけっこう悲しかった。
それでも、大丈夫です、きっと直りますから、とは言ったものの、誰が見ても修理不能であることは間違いなかった。
自分の部屋に帰って改めて見ると、根本のプラスチックが割れて、台座部分とヒーター部分が完全に分離していた。
しかし、肝心な電気部分はダメージを受けてなさそうなので、念のため電源を入れてみるが、つかない。
そこで配線のチェックをしてみると、驚くべきことが判明した。
なんと、各配線の接続部分は、ハンダや圧着で接続されておらず、ただ指で裸の電線を縒ってあるだけだったのだ!
つまり、軽く引っ張るだけで簡単に抜けてしまうような構造だったのである。
電気的に考えると、電流さえ低ければ大した問題にならないのだが、これはストーブなので、
日本の100Vの環境だと1000W、中国だと約500Wの電流が流れるため、接続部分がいい加減だと、
そこから熱を持ち、最悪発火の可能性すらあるワケだ。
ヒーター部分が首を振るたびに結線部分が引っ張られ、次第にゆるんで…お、恐ろしい。
プロデューサーが電気毛布をやめさせた理由がよく分かった。
よく分かったけど、寒いことには変わらず、再びドライヤーのお世話になることに…。
お風呂も、もちろんコップで入った。
しかし、昨日より少し上手くなっていた…。